ジョブズさんを偲ぶ
この日記を僕はWin7で書いているのですが、そんな僕にとってすら、一昨日亡くなってしまったスティーブ・ジョブズ氏は、物心両面ですごく大きな存在でした。
モノという面での身近な事実では、たとえばWin7がGUIでXPに比べて格段にクールなのも氏の影響でしょうし、大きなディスプレイをもったスマートフォンが普及したのも彼のおかげです。なんてことを言い始めるとキリがないくらい、僕たちの世代の生活に影響を与えた人物ですので、僕も呼吸をするようにジョブズ氏にお世話になって生きています。
一方、具体的な事実とは別に、何度も時代と自分のビジョンが合致した偉大な預言者として、また大きな挫折を乗り越えてより大きな偉業を成したビジネスマンとして、また使いやすくてかっこよくて驚きのある製品を次々と作り出すクリエイターとして、そして人々を一瞬で魅了するロックスターのようなパフォーマーとして、僕はスティーブ・ジョブズ氏にあこがれを抱き、また彼の言葉に勇気づけられてきました。
スタンフォード大学の卒業式でのあの有名な演説は、親に国立の理系大学院を出させてもらったのに新卒で入った就職先を1年半でリストラされ、半年以上ふらふらした挙句、27になる年に着メロサイトの運営補助アルバイトから今のキャリアを始めた親不孝な僕を、とても奮い立たせてくれました。
Appleが掲載しているオフィシャルの追悼文で、Appleはスティーブ・ジョブズ氏のことを「visionary and creative genius」と表現しています。暫定CEOとしてAppleに戻ってからの氏は、次々に世界的大ヒット製品を世に送り出しました。連戦連勝の実績と、新製品発表会でのオーラバリバリの語り口が、まるで預言者のようであるため、ビジョナリーとしての印象が強いですが、それは車輪の片側であって、もう片側の「創造性の天才」がなければただの絵空毎になっていたと思います。
「創造性」という言葉は曖昧で、なんとでも解釈できる言葉ですが、僕は「まだ実在しないものをどのように作るべきか細部までイメージすることができ、それを自分の手で作るか、もしくは作れる人を惹きつけて、連れてきて、焚きつけて、作らせることができる能力」だと思っています。
WEBで見かけるスティーブ・ジョブズ氏にまつわる数々の逸話は、本当のものもあれば、誇張されたものや嘘もあるでしょうが、一貫して伝わってくるのは、また製品を触って感じるのは、とにかく細部へのこだわりが半端なかったということです。おそらく「そこがこうなっていなければ世に出す価値がない」と断言できるだけの、明確な製品イメージを持っていたのではないでしょうか。
人間生きていれば、何度かは天才的な創造性を発揮し、周囲の人々を魅了するタイミングがあると思いますが、スティーブ・ジョブズ氏は、世界的な影響力を持つそれを、何十年も続けてきた不世出の人物であり、見方を変えれば、最期までとことん時代に愛された人であったのだと思います。
もういい歳ですが、僕も縫い目までイメージできる大風呂敷を、”Don't settle”で探し続けたいと思います。
スティーブ・ジョブズ氏のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
UEFA CHAMPIONS LEAGUE の決勝に組織運用のネクストレベルを見た(気がした)
2010−2011のチャンピオンズリーグ決勝は、残酷なほどの内容の差を見せつけて、FCバルセロナが勝った。
会心の勝利を喜ぶグアルディオラ監督
バルサの相手は、”あの”マンチェスター・ユナイテッドだ。
今期はリーグ優勝もし、CL準決勝では、前回優勝のインテルを準々決勝でボコって勝ち上がってきたシャルケをまったく寄せ付けなかった。サー・アレックス・ファーガゾンによって約20年の間熟成され、下の本によれば、むしろ10年前にはバルサがお手本にしていた世界最高のフットボールクラブである。
ゴールは偶然の産物ではない~FCバルセロナ流世界最強マネジメント~
- 作者: フェラン・ソリアーノ,グリーン裕美
- 出版社/メーカー: アチーブメントシュッパン
- 発売日: 2009/12/01
- メディア: 単行本
- 購入: 12人 クリック: 209回
- この商品を含むブログ (49件) を見る
にも関わらず、その差は圧倒的だった。
にわかには自分の見たものが信じられない。
前線、中盤、サイド、最終ラインに世界最高の選手をおき、各人がサボらずしっかりと複数人でプレスをかけに行き、素早い攻守の切り替えとテクニックで効果的にバイタルエリアにボールを運び、ディフェンスの陣形が整い切る前に技術と強さを兼ね備えた世界最高のフットボーラー”ウェイン・ルーニー”に渡す。
これは勝利のセオリーだ。これぞフットボール。これぞサッカー。ルーニーがクリスティアーノ・ロナウドに変わろうが、イブラヒモビッチに変わろうが、サッカーの構造は大きくは変わらない。マンチェスター・ユナイテッドは、現代サッカーの王道を超高レベルに体現したチームだった。
しかしそのユナイテッドが手も足も出なかった。
世界最高のフットボールが為す術もなく負けた。
バルサがサッカーの競技場で繰り広げているあれは、本当にサッカーなのか。フットボールなのか。まるでルールや競技そのものが違うようではないか。そう思いたくなるぐらい、ウェンブリーでの決勝の内容は衝撃的だった。
もしかしたら本当に違うのかもしれない。考え方の根本が違うのかもしれない。同じルールの上で戦ってはいるが、彼らの目的や優先順位が、ほかのチームとは違うのかもしれない。その違いは一体なんなのか。
強く感じたのは、バルサにはFWやMFやDFという概念が見受けられないということだ。フィールド上でカバーする領域はある程度分担されているものの、FWだから攻める、DFだから守る、サイドだから突破する、という「作業の分担」が明確にない。
プレスをかける。ボールを奪う。パスをして相手をずらす。角度を変えてパスをもらって止める。また体の角度を変える。またパスをして相手をずらす。縦にボールを進められる穴が空いたらボールを前に運ぶ。ドリブルかパスかを判断して、シュートかラストパスを打てる位置に侵入する。シュートコースをこじあける。その時ボールを持っている人がシュートをする。
バルサの選手は全員それをやっている。それぞれの位置でもっともふさわしい選択をしながらやっている。DFでも前目でボールを受ければその位置なりの働きをする。CMFでも、ディフェンスラインでボールを受ければ、それなりの動きをし、前に侵入すればシュートを打つ。FWとかDFとかの役名で仕事をしていない。チームのコンセプトが真ん中にあり、そのコンセプトを実現できるスキルを全員が身につけ、自分がいるフィールドの位置・その瞬間求められている要求によって、チームのコンセプトに沿った働きを行っている。
だから誰かを起点にする、どこかでポイントをつくる、ということが起きていない。センターがない。実際にピッチの中央にいなくても、その選手が持つとポイントになる選手という選手が普通のチームにはいる。主にテクニックとボディバランスに優れ、ボールがおさまる選手だ。彼が持つと周囲の攻撃のギアがはいる。しかしバルサの場合は全員が起点になりうる。というか起点という概念がない。ギアが入るという明確な瞬間がない。
バルサの誰かがボールを持つと、ピッチ上に張り巡らされたネットワークの中を、ボールがランダムに行き来しているように見える。そこには「相手に当たらないようにできるだけ前へ」というアルゴリズムだけが働いており、「誰が誰に」と恣意的に動かされることがない。もちろんピッチ中央は一番ボールが通りやすいのでシャビがボールに触る回数は多い。だがシャビが持つから攻撃ができるというのとは違う。シャビはチームで一番ボールを運び動かすことに優れているが、そのシャビもあくまでバルサのサッカーのひとつの駒に過ぎない。ネットワーク内のフロー(ボールの動き)を維持させるためのノード(節点)であって、バルサの中心ではない。フィニッシャーのメッシも同様だ。たしかに特別な選手だが、それはバルサのネットワークの先端にいてこそ発揮される。バルサのサッカーの本質はネットワークの維持だ。ネットワークの形成と維持が彼らに課せられた90分間でもっとも重要な仕事であり、ネットワークを形成するために必要なスキル各種を研鑽するために練習をしているはずだ。
機能別のスペシャリストを配し、スペシャリスト同士の流れ作業や協力によって目的を達成するのが一般的に効率的とされる組織運用だ。サッカーも例外じゃないし、多くの会社やプロジェクトもそうやって動かされている。しかしそれをつきつめた最高レベルのサッカーチームが、まったく違うコンセプトのチームに手も足も出ずに負けた。これはショッキングで、かつ示唆の多い出来事だ。
これがもしコンセプト同士の戦いなのであれば、多くのスポーツクラブ、企業、プロジェクトなどが、今のやり方を考え直さなければならない。しかし、そんなコンセプトを実現できる方が奇跡的で、汎用的ではないのであれば、チャレンジすることが無謀ということで終わるかもしれない。理想的ではあるけれど、できないことを追っても仕方がない。そうなれば、コンセプト間の戦いにはならない。今のバルサが、できないはずのことを実現することができた奇跡のチームだったというだけだ。
だから僕は本当は、もう1年バルサに残ると宣言したグアルディオラに、バルサを辞めて欲しかった。ほかのチームで、一からそのコンセプトを実現することができるのか、その実験を見てみたいと思った。もしそれが実現できるのであれば、世界の組織運用の常識が変わるかもしれないのだから。
しかしグアルディオラは残るらしい。こうなれば、来期はモウリーニョひきいるレアル・マドリードに期待したい。各リーグから世界最高の選手を集め、徹底した管理で各々の仕事をさせる。これまでのやり方の究極的な洗練である。それで今のピークバルサにも勝つことができるのか。今期はまだまだだったが、来期はチームの核もできあがり、今年よりは絶対に強いはず。
来期のこの2チームの戦いには目が離せない。
AKB48をプロレス興行と理解する
一昨日の夜、妻があまり寝付けなかったらしい。
それで何を思ったか、今総選挙で話題の集まっているAKB48のメンバーについて、ひとりずつWikipediaに書かれている内容を見ていったという。一昨日の昼までは、妻はAKB48についてはほとんど知識がなかったようだが、今ではWikipediaに書いてあることなら知っている。
その妻が、さらにAKB48の知識のない僕に、昨夜AKB48について語ってくれた。その話を聞くうちに、僕はAKB48の人気の構造を見た気がした。
こんなことWEBで書いて大丈夫なのかと思うが、外様の僕から見るとAKB48の全国的な人気がずっと解せなかった。メンバー個々が、たとえば他のグラビアアイドルに比べて、見目の面で突出して長じているとは思えない。元々印象が薄い上に人数が多いのでさらに薄まってまったくとっかかりがなく、好きになりたくてもどこから好きになっていいかわからないというツルツル仕様に見える。
だから局所的に盛り上がっているのなら十分わかるが、当初の半地下アイドル的なところから大化けして、いまや国内芸能界の中心に鎮座ますますスター集団になった経緯が不明であった。いったい何がそんなに彼女たちをここまで押し上げたのか。
タイトルに書いてしまったが、それが僕にはプロレス興行の構造と同じに見えたのである。
正統派の人気者として前田敦子率いるチームAをおき、そのオルタナティブとして”みんなでがんばる”チームKをおく。エリート集団のA 対 庶民的なKの対立の構造を、一つの集団の両極に置いて、チーム同士を一つの舞台の上で戦わせる。一つのプロレス興行団の中に、ライトサイドとダークサイドの両極を置くプロレス興行と同じである。
プロレスと同様、様々なタイトル(ベルト)があって、小規模な大会や試合は数多あるのだが(チームを超えたタッグマッチとか)、1年に1度の総選挙はいわばグランプリであり、もっとも価値の高いベルトの奪い合いだ。
さきほどAKB48には好きになるとっかかりがないと書いたばかりだが、こうなってくると話は変わってくるだろう。上昇志向が強い正統派のかわいい子を応援したくなるか、人にやさしく明るい仲間たちを応援したくなるか。それはユーザーの信条と心情に訴えかけ、ユーザーの参加を促すストーリーである。
プロレスの醍醐味はもちろんその試合そのものの魅力もあるが、ひとつのプラットフォームに形成されたストーリーにのっかって、ユーザーがストーリーに参加し、自分の思いを仮託して楽しむところが肝だと思う。それを大きな市場がすでにあるアイドル市場で、かわいい若い女の子たちをメインに据えてやれば、それは相応の固定ユーザーを獲得するポテンシャルがあっただろうと思う。一時期のプロレスの人気もすごかったのだから。
最後にGoogleトレンド先生に、そもそもAKB48がいつから、局所的な人気者から、全国区になったのかを教えてもらうことにした。
Googleトレンド
http://www.google.co.jp/trends?q=AKB48
知っている人なら当たり前なのかもしれないが、やはり昨年の総選挙あたりから、検索数が激増し、そしてそのままスタンダードが2,3段切り上がって、今に至っているようである。
そもそも長年にわたる地道な活動によってじりじりと人気をあげてきてはいたが、総選挙というきっかけによって、AKB48プラットフォームに通底するストーリーを多くの人知ることになり、自分の信条を仮託して彼女たちを見つめる人が多くなったのではないかと思われる。
ずっと不思議だったことが、なんとなくわかったような気がした土曜の夜だった。
それで今年は誰が勝つんですか?
NINTENDO 3DSが携帯ゲーム機と言うより”時空おもちゃ”である件
2011年2月26日、つまり昨日は、NINTENDO 3DSの発売日という記念すべき日でした。
ほしいほしいと思っていましたが、とれた予約が今週末入荷分だと判明したため、週末に量販店を足でまわったところ1台購入することができました。
ノンプログラマ云々とは一見なんの関係もなさそうですが、3DSは、日本のトップクリエイター集団が知恵と情熱の粋を集めて創った製品ですから、これほどクリエイティブなモノもそうありません。クリエイターになりたいってタイトルで言ってんのに、3DSをスルーするという選択肢があろうはずもないのです。
3DSをさわった感想は、とにかく、めちゃくちゃ楽しい!!
何かを買ってこんなにはしゃいだことはしばらくなかったんじゃないかと思います。裸眼立体視のおもしろさはとにかくさわって見てみないと伝わらないと思うので、ぜひご自分でも買ってほしいですし、もっている人に見せてもらってほしいです。とにかくみんなに体験してほしいです。34にもなるとなかなか驚くことってありませんから、こういう体験は非常に貴重だと思います。
さて、3DSはDSの後継機であったり、ソニーがNGPの発表時期をぶつけてきたりと、どうしても「ポータブルTVゲーム機」として捉えられてしまいますが、僕は実際にさわってみて、3DSは”TVゲーム機”ではないことがわかりました。じゃあなんだと言うと”おもちゃ”です。おもちゃ。詭弁に聞こえるかもしれないので、もう少し説明します。
任天堂がゲームウォッチでTVゲームを家庭に持ち込んでからのこの数十年というもの、TVゲームを映すディスプレイが娯楽の中心でした。みんなみんなディスプレイを見て、みんなみんなディスプレイに映るものをつくりました。ディスプレイでの表現は、それがなかった時代ではできなかったことが起こりまくり、刺激的でした。また、一緒に遊ぶ友達とわざわざ都合をあわせなくても、ゲームが遊びの相手をしてくれるようにもなりました。TVゲーム機のディスプレイに写るものは、だんだん高度になっていき、果てのないクリエイターの要求にも応えることができるようになってきました。通信が発達して、同時に近くにいない人や、同時にゲームに触れていない人とも遊べるようになりました。ディスプレイの上につくられた世界の上で。
でも3DSは、ディスプレイの上につくられた世界で遊ぶための製品ではありません。
3DSをもっている人のその周りすべてに遊びの要素を付加する”おもちゃ”なのです。
表現する場所は3DSのディスプレイの上かもしれませんが、遊びの対象は、ディスプレイではなく、その人がいる場所、3DSのある場所、ある時間、そのものなのです。要素技術としてはARとか、裸眼立体視とか、それほど真新しいものではありません。しかし大事なのはコンセプトです。それらの技術をつかって、一貫して何を表現するかということです。3DSのある時空を遊びにするための道具。おもちゃ。それが3DSなのです。DSやPSP、またNGPは、いつでもどこでもおもしろいゲームができる道具、です。3DSはそこが違います。
でもこれって、たとえば独楽なんかと変わらないわけです。独楽は、独楽さえあれば、そこが独楽闘技場になります。サッカーボールは、そこにサッカーボールさえあれば、そこがサッカー場になります。3DSは、そこに3DSがあれば、すべてが3D写真の被写体や、ARゲームス・顔シューティングのステージになります。もちろんゲームもできます。これが独楽やサッカーボールにはない利便性ですね。
って、何言ってるのか伝わりにくいでしょうねこれ・・。
何かまたいい言い方があったら整理しなおしてみます。
とにかく今日はとても興奮しました。
次のエントリでは、史上最大(におそらくなると思われる)3D写真プラットフォームの潜在的なパワーが、いかにすさまじいかについて、書きたいと思います。
隣の黒い画面
今日はななめ後ろに座っておられる本物のクリエイターに、すこしお時間をいただいて、開発環境について教えてもらいました。Tera Termって端末エミュレータでVimってエディタを立ち上げると、どこからでもLinuxサーバー上のソースを直接いじれるんだぜというありがたいお話。
10時間前だと今自分で書いた内容のこともさっぱりわかりませんでした。今のうちにここに書いておかないと、またすぐ忘れてしまいそうです。ていうかTera Termのことはなんとなく聞いたことがありましたけど、文字が書けるっぽいからエディタなんだと思ってました。ああすみませんすみません。もうそのぐらい、本当にまったくわかっていないのです。
ちなみにTera Termのようなソフトのことを端末(ターミナル)エミュレータというそうです。ターミナルエミュレータとは、名前の通り、なんらかの専用端末をエミュレートするソフトウェアのこと。Vimはエディタで、操作にかなりクセがあって、平気な顔で使っている人たちを見たら、変態だと思っていいエディタソフトみたいなんですけど、慣れるとすごく早く書いたり直したりできるらしいです。僕はURLを知ってるサイトでも、わざわざGoogle先生に検索かけてインデックスから飛ぶような人間で、およそGUI以外でPCをさわったことがないので、そんな自分の姿を想像するのははまるで夢を見ているようですね。
さて、Tera Termをエディタだと勘違いしていた僕は、それぞれがどういう役割なのかを把握するところからやり直しました。その時に先生が教えてくれたサイトがその理解にとても役立ちました。
このサイトにも書いてありますけど、必要以上に難しそうとか、自分の範疇じゃないとか思い込むのはナンセンスで、道具なんだからとりあえず使ってみれば、ほかに使っている人だって同じ人間なんだから、案外使えてしまうんですよね(たぶん)。正直、黒い画面は威圧感あったし、聖域のように見えていましたけど、毎日触れて、徐々に黒い画面に慣れて、普通に歩けるようになっていこうと思います。ていうかそもそもVimだって別に最初は黒くなかったし。わざわざみんなが自分で黒くしているんだぜ。選ばれた人だけが入れる黒い聖域ではなかったのであります。そう見えていたのは自分が自分でつくった箱の中にいたからであります。
- 作者: アービンジャーインスティチュート,金森重樹,冨永星
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2006/10/19
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 156人 クリック: 3,495回
- この商品を含むブログ (418件) を見る
それにしても、身近に色々教えてくれる同僚がいるってなんて幸せなことなんでしょう。僕は恵まれていますね。先生ありがとうございます。ところで、Tera Termがターミナルエミュレータなのはわかりましたけど、いったい何の専用端末をエミュレートしてるんですか?
…ひとつひとつつぶして、慣れていこう…
映画「ソーシャルネットワーク」を観て思った”WEBの企画ってなんなの?”
映画「ソーシャルネットワーク」を観てきました。おもしろかったです。
おもしろかったポイントは2つあって、一つは製作者の意図通り、人間ドラマが濃密だった点。もう一つは、サービスが生まれる瞬間と、急成長していく様子の熱狂ぶりです。
虚実入り交じりまくりで、マーク・ザッカーバーグはすっかり別人になってるらしいですけど、それでもフェイスマッシュやザ・フェイスブックをつくり出している時は、本当にきっとこんな感じだったんだろうなと、リアリティと憧れを感じました。
思い立って、そしてすぐ創って、みんなに使われるということの、なんと楽しげなことか。それが大学の女生徒を相互に比べて、誰が一番ホットかを決めるという、若干悪趣味なサービスだったとしてもです。
一方で、映画の物語ではひとつの核心になっている「フェイスブックのアイデアは誰のものか」という訴訟には考えさせられました。
「ハーバード大の学生限定のソーシャルネットワーク」という発想は、たしかに、もしかしたら、マーク・ザッカーバーグより早く、ほかに誰か考えた人がいたかもしれません。
そしてその人が、自分のアイデアをマーク・ザッカーバーグに話したのかもしれません。
さらに言うと、その誰かの一言がなかったら、マーク・ザッカーバーグはFacebookをつくっていなかったかもしれません。
でもそれがなんだと言うのでしょう。
仮に同じコンセプトのサービスを同時期につくっていれば、それが7年後に6億人のユーザーを獲得した保証はまったくありません。
そんなことより、不完全でもなんでも、先につくって、実験して、ユーザーに受け入れられることを現実のものとしたことが、圧倒的に大事なんだと思います。
考えることは大事です。
でも実現することはもっと大事です。
僕はモバイルコンテンツやWEBサイトの”企画”として、ここ数年飯を食ってきましたが、サービスもコンセプトも考えられるエンジニアを前にすると、自分のなすべき領域が非常に小さく感じられて、自分が役立たずであるかのような気持ちになることがありました。
トップマネジメントや営業企画、プロジェクトマネージャー、アナリストはもちろん必要ですが、WEB開発に”企画だけを専門とする人間”が必要なのかは、常に疑問に感じてきました。
ルーチンでなく、常に外環境が変わり、それに対応して創造・改変していくWEBコンテンツ/サービスの開発で、明確な分業はむしろ非効率だと感じます。特に0から1をつくろうという時には、ちょっと思いついたアイデアを試してみたいから、まずは誰かと誰かのスケジュールを調整して・・なんてナンセンスです。
だから僕も、ちょっとぐらいつくれるようになりたい。つくるための道具を使えるようになりたい。
ずっと前から思いつつ、ずっと棚上げしてきました。
でも「ソーシャルネットワーク」を観て、もう一回焚きつけられました。だって楽しそうだったから。
”プログラマ35歳定年説”があるぐらいなので、そこそこ無謀なのかもしれませんが、まああんまり気にせず、34歳6ヶ月から、プログラミングの勉強を始めてみようと思います。
ちょっとずつ。